コイノニアの夏期集会に参加して京都駅で本家西尾八つ橋を買って日交高速バスで大山に帰って来る。早速ご近所にお土産を配り終えると、悠子から「志水家からぶどうとそうめん送ってくれてるって!」メールが入る。
花帆ちゃんはすでに口いっぱいにほうばつています。
人生のすべてをかけてコイノニア会を運営して来られた私市氏に司会者の聖さをコイノニア会は自ら決定することはイエスの聖さには相いれない、コイノニア会の【限界】と発言したわたしに、アリゾナに帰る前にわざわざ大山まで訪ねてくれた石田さんが、老いと病に抗して「ヨハネ福音書講和と注釈」(上巻と下巻)に全気力を注がれて完成された今、コイノニアの来夏期集会には講和はできないかもしれない予感を表明しておられる先生に、(二十歳の大学生のころから八十六歳の現在までイエスキリストを特に東回りのキリスト教を証しされている先生に)、なんの実績もないあなたが限界という言葉を語るのは傲慢ではないか、倒すためではなく起き上がることができるように言葉を選ぶようにとアドバイスしてくれました。石田さんの優しさです。
人は他者の愛の行為に出会い真実を得ます。自分の愛のなさに気付かされます。
流石私市さんOngoing Commitment、ここでは自由に意見を述べてくださって結構です。
なにを言ってもここに出席されている皆さんはそれぞれ弁えていますから。
傲慢の意見をそれぞれが弁えることで、発言者の自由は保たれる。
地上の生活は希少性に呪われているのではなく、豊かさに祝福されている。
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くなく、
権力者も多くはなく、身分の高いものも多くはありません。 (希少性)
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強いものをはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。 (複数性)
「複数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間 man ではなく、複数の人間 men であるという事実に対応している」(Arendt 1959: 7=2001: 20)
だれでもキリストのうちにあるなら古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなる。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。
キリストのうちキリストのからだ共同体を形成する地上の一人ひとりの祈り。複数の人間menの祈りの先には神の御国/創造があります。
Our Father in heaven,
hallowed be your name,
your kingdom come,
your will be done,
on earth as in heaven.
Give us today our daily bread.
Forgive us our sins
as we forgive those who sin against us.
Save us from the time of trial
and deliver us from evil.
For the kingdom, the power, and the glory are yours
now and for ever. Amen.
私市氏によると 新約聖書は、全世界に広がる御国の建国物語です。神の御国とは、わたしもそう思うのですが、共同体を形成する一人ひとりの活動すなわち、祈りの先、に、神ご自身が働かれて、わたしたち人間を新たに創造し、わたしたちの世界を再創造することであり、これは建国の叙事物語です。
主の祈りの結びに来る「御国と御力と御栄光は、とこしえに汝のものなればなり」は、
この建国の祈りを的確に言い表わしています。