2017年4月28日金曜日

同性愛者の結婚と教会




米子から388㎞のプサンにアメリカの原子力潜水艦が有事に備えて停泊している。
わたしの毎朝の露天風呂から700㎞先に北朝鮮の弾道ミサイルが配備されている。





北朝鮮とアメリカの威嚇合戦の中、京都とアリゾナと大山をパソコンで結んで
コイノニア会を開催した。




コイノニアすなわち教会は今起こっている現実にどのような言葉をもつのか。




アリゾナの石田さんから同性愛者が教会に来た時日本の教会はどうしているのだろうと質問・問題提起があった。
私市さんは 同性愛問題について としてコイノニアのホームページに発表されている。
 

 
 
 
(もずくをまださんからとりたてをおすそ分けで戴きました。) 
 
アメリカでは同性愛者が市民権を持つ州が増えてきているという。
日本の教会でも同性愛者どうしの結婚をどのように考えているのかと問われた。
 
 





隔ての壁を打ち砕く認識(言葉)は、きっと厳しい現実に直面し動揺し思いをめぐらし続けることで誕生するのだろう。





同性愛者の結婚は伝統の信仰の理解範囲を超えている現実、同じように北朝鮮とアメリカとの恫喝をエスカレートさせた現実も顛末は予測範囲を超えている。


理解できない不確かな現実にどうかかわるかということについて、解らない時。

ザアカイはイエスの姿を見ようと木にのぼり身を延ばして自分の目で見て判断したことを御前に語った。

不確かな現実を前に、自分の見たことを他者に語る、人前に現す行為のうちに、イエスは言います。
『今この家に救いが来た。』     と。

あなたはどこにいるのかと名を呼ぶ方の前に出る、人が暮らす共通の場所・公共の場(世)を愛し人が自分の意見を述べ、人が共同して思考する謙虚な行為の公同(家)に救いが来る。




 

2017年4月25日火曜日

筍と大成池の八重の桜の季節








ガーデンプレイスで煮た筍がある、雅子に季節の料理をつくってもらう。





気温18℃ 晴 
桜は散ってしまったが、大成池公園は八重の桜が満開です。




芝生も灰色から緑色に色づいてきました。




いつも写っているダニエルはいないのは寂しいが、今は主の時。


復活にふさわしい時です。
指を傷口にいれ失くしたものをこの目で見て手で触れて確認しています。












散歩していると、わたしの知らない人から、ダニエルのことを訪ねられる。
いつもわたしとダニエルとさんぽする姿を見かけていて、一人散歩する私に
声を掛けてくださる。



だれだれさんからダニエルのなくなったのを聞きました。と言ってくださる
人にも出会う。


知られていないようでも、見られ知られていたのをあらためてきづくのです。




悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、 何も持たないようでも、すべてのものを持っている。

大山ゾートの森で隣人とイエスの愛を暮らしの中に共有して過ごしています。





 

2017年4月21日金曜日

新緑の中で雅子と



まださんからいただいたこしあぶら。




Sophie Bertin Pinot Noir Recolte 2014
天婦羅とお浸しで美味しく戴きました。










森が新緑で賑わっています。



土手にはスミレが咲き誇っています。











 
 


ダニエルがついてこなくなったが、同じコースを朝晩散歩しています。






ここで暮らしているのだが、どのように暮らすのかが定まらなかった。
クルーズ船に乗って旅するように暮らすのがわたしの暮らしにあっていそうだ。






来る日も来る日も海原のように、森林の中。



時々、港について観光するように、丘の上で会話をする。




そしてまた出帆。
新しい出会いを求めて船出する。





船内でパーティをするように大山ロイヤルホテルで華やぐ。





リゾート地で年金生活者が暮らすのも、主が与えてくださったわたしたちへの恵みなのだと気づきました。



暮らしは、誰にもそれぞれ決まりはなくそれぞれの自由に暮らせばいいのだ。


単調な日常はクルーズする者にもやって来る。
代わり映えしない大海原も時には美しい夕焼けや恐ろしい嵐を経験する。



寂しい大山リゾートの森も四季折々表情を変える。


海原を見つめる以外ない乗客にとって時それぞれの表情は航海する者にとって慰め。
わたしにとっても森の変化を主の慰めとして感謝して味わい尽くそう。


そして時々エクスカーションがあるように、大山の森で人と出会う観光地の喜びに出会う。





ただ心に留めておきたい、クルーズも森の生活もやがて終わりが来る。






そうです、ダニエルのように、誰の上にも終わりが来て、ダニエルのように生きているのだ。


人と獣と人生にどれほどの違いがあるのか。


違いがあるとすれば、どのような所でも人は一人で生きているところでも、
その時代を生きているものの歴史の一端を担っているという事実だろう。



自由に生きてあるい不自由に生きて楽しく生きてあるいはしんどく生きて、それぞれ自分の人生を生きることは、歴史の一端を担っているわたしたちの人生が歴史を形作る時代の真実な証し、ヒストリーなのです。



ダニエルは気づいていなかったかもしれないが、人はどのように生きても他者と繋がって歴史を形成しているという歴史の主人公の自覚が目覚めさせられる。



こんな森でもその一端を担っていると気づいたとき、クルーズ船に乗って旅する人生もそれはそれで人生なのだという思いに至った。