2016年12月6日火曜日

隣人からの美味しい戴きもの



ダニエルが大山の森でわたしと(自転車で)散歩する姿をみて
久保さんが、すっかり(元気に)良くなったね。
と声を掛けてくれる。



ミハエルという二歳のジャーマンシェパードを連れたかたとたびたび出会い挨拶をする。

ミハエルと呼ぶたびわたしは天使を目の前のシェパードに連想してしまった。

あれはたしか大天使ミカエル名前が違っている。




昨晩、ブロッコリーをいただいたまださんの紹介で露天湯につかっている

アルゼンチンからきて太陽発電の仕事で三か月ホテルで滞在している人と話をした。


ブラジル以外は南アメリカの人々はスペイン語を話しているのだそうだ。




ブラジルだけが違ってポルトガル語を話すのだという。




どちらもベースにラテン語がある。

その本場イタリアからきて大山ロイヤルシティリゾートの森で
乳母車に赤ちゃんを載せて一人散歩しているひとともよく話をする。



今日は、風呂上がりホテルの駐車場で黒猫ヤマトのかたに声を掛けられた。

わたしに荷物が届いている。



もらってゆこか。

なんと泉佐野の友人から美食の国・イタリアミラノ「Peck」の
ハム・ソーセージ詰め合わせを贈っていただく。



早速 

戴きもののブロッコリーもソーセージも美味しいワインともに昼食に  
隣人からの贈りものとして食す。

 



わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。





隣人であるナザレのイエスの人の肉と血もいただきもの。


すこし話がそれるが我有化という言葉がある。
我有化: 或る思想を自分にものとすること、その思想によって自分自身の根源が目覚めて活動しだすこと。〕


実は信仰も思想も自分自身の根源が目覚めて活動しだすことは同じだ、であれば思考や信仰の差異よりも大事なことはどちらもいただきものにあることが押さえておく観点だとわたしは思っている。

人々のそれぞれの我有化すなわち複数の我有化が、みことばの人への信仰(信頼)として人手に依らず纏められてゆく経験はどのような時になるのだろう。

神の知恵を、自由と愛をいただきものとして共に食す経験。

人の欠けを人がおぎなう経験に出会う時訪れる。人にはできないが神には不可能なことは何一つない。







あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。






隣人との出会い、戴きものを共に食す。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)

神と人との共同作業である美味しい葡萄の果実は、出会いの喜びをもらいものとして日々の食卓で感謝して食すことにある。





 

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