2015年12月29日火曜日

行く年来る年、共通世界に残るもの


ベネディクト十六世『天地の創造主である神より』抜粋

ヘブライ人への手紙の著者はいいます。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神のことばによって創造され、したがって見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」

ヘブライ11:3



それゆえ信仰は、目に見える世における痕跡を見分けながら、目に見えないものを認めるすべを知ることを意味します。

人間の知性は、信仰の光のもとに、聖書のうちに世界を理解するための解釈の鍵を見いだすことができます。




とくに創世記の一章は特別な位置を占めます。

七日間に行われた、神の創造のわざを荘厳に示しているからです。

神は六日間で創造をなし遂げ、七日目の安息日にすべてのわざを止めて、休みます。



安息日はすべての人のための自由の日、

神との交わりの日です。


こうして創世記は、このようなイメージを通してわたしたちに次のことを示します。





すなわち神の第一の思いは、こ自分の愛にこたえる愛をみいだすことです。

また第二の思いは、

この愛、すなわち自由をもって愛にこたえる被造物を

置くための物質的世界を造り出すことです。




男と女、人間、「造り主を知りかつ愛することができる」唯一の存在です。

詩編作者は天を仰いで自らに問いかけます。

「あなたの天を、あなたの指のわざをわたしは仰ぎます。
月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたがみ心に留めてくださるとは、
人間は何ものでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」

詩編8:4~5




人間は、広大な宇宙の前できわめて小さな存在です。
時として、大空の果てしない広がりをうっとりと眺めながら、わたしたちも自分の限界を感じることがあります。人間のうちには逆説が存在します。わたしたちの小ささとはかなさが、神の永遠の愛がわたしたちのために望んだ偉大さと共存しているのです。





神が人間を地の塵で形づくったと述べます。創世記2;7

これは次のことを意味します。わたしたちは神でもなければ、自分だけで自分を造るのでもありません。




これにもう一つの根本的な現実が付け加えられます。
文化と歴史による違い、あらゆる社会的な違いを超えて、人は皆、塵です。





神の一つの土によって形づくられた、一つの人類です。

さらに第二の要素があります。人間には起源があります。


神は土から形づくったからだに、いのちの息を吹き入れるからです。
創世記2:7



人間は神の像と似姿として造られました。創世記1:26~27

ですから、わたしたちは皆、自らのうちに神のいのちの息をもっています。





聖書が語るとおり、

人間のいのちは皆、神の特別な保護のもとにあります。

これが、功利主義的な、力による基準に従って人格を評価するあらゆる誘惑に対抗して、人間の尊厳の不可侵性を裏づけるもっとも深い理由です。




さらに、神の像と似姿であることは、人間が自分自身のうちに閉ざされたものでなく、

神を本質的な基準としていることを示します。




創造物語から、最後に次の教えを指摘したいと思います。



罪は罪を生むこと。




そして、歴史の中のすべての罪は互いに連関していることです。
ここからわたしたちは、「原罪」と呼ばれるものについて語るよう促されます。

原罪というこの理解しがたい現実は、いかなることを意味するのでしょうか。ここではわずかな点だけ示したいと思います。まず考えるべきことはこれです。





いかなる人も自分だけに閉ざされてはいけません。だれも自分だけで、自分のためだけに生きることはできません。わたしたちはいのちを他のひとから受け取ります。それも誕生の時だけでなく、毎日です。人間は関係です。わたしがわたしであるのは、あなたのうちに、あなたを通して初めて可能です。




神というあなた、また他の人びとというあなたとの愛の関係のうちに初めて可能です。
ところで、罪は、神との関係をゆがめ、破壊することです。



自分が神に取って代わることによって、本質的な関係である、神との関係を破壊すること ━━ 罪の本質はこれです。



わたしたちが遠ざかっていたかたが、わたしたちのところに来て、愛をもってわたしたちに手を差し伸べることによって、初めて正しい関係を再び結ぶことができるのです。


 



聖パウロのフィリピの信徒への手紙二章の賛歌が述べるとおりです。
フィリピ2:5~11



アダムは自らが造られたものであることを認めず、神に取って代わろうとしました。これに対して、神の子であるイエスは、御父との子としての関係を完全なしかたでもち、自分を無にして、しもべとなり、愛の道を歩みます。そして十字架の死に至るまでへり下ります。




それは、神との関係を秩序ある姿に回復するためでした。こうしてキリストの十字架は新しいいのちの木となります。




親愛なる兄弟姉妹の皆さま。
信仰を生きるとは、神の偉大さを認め、自分の小ささを、
被造物としての身分を受け入れることです。




それは、主の愛によって満たしていただき、わたしたちの真の偉大さを成長させてもらうためです。




悪とその悲しみと苦しみに満ちた重荷は、神秘です。




この神秘は信仰の光によって照らされます。





信仰は、わたしたちが解放されるという確信を、





人間であることはよいことだという確信を与えてくれるからです。

(2013年二月六日、パウロ六世ホールにて)


















 

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