丸山から伯耆町におりるのは月四回、ホックへ食料の買い出しに行くときだけ。
後は丸山の大山リゾートで過ごす。
四時半ごろ明るみ始めるとひぐらし蝉と小鳥たちが鳴きだし朝のWORLD NEWSをみて六時ごろダニエルと一時間別荘地を歩く。午後六時の散歩は自転車で、大山と出雲の山並みが見える誰とも会わない農道を通りふれあいの森までゆき、一気に坂道をロイヤルホテルまで下って来る。
ダニエルは時速四十キロを余裕で越えた速さで走る。
朝の散歩の後雅子と地デジでまれをみて食事をとり、わたしは露天風呂にゆく。一年前に経験した肩鎖関節脱臼の肩を温泉でマッサージする。未だに肩の筋肉と腰や足につながっている筋肉とが治まりきらなくで具合が悪く痛みがある。
パウロの三度主にこれを取り除いてくださいと祈ったが主はあなたにはこれが恵みとなっていることを覚えるようにとの思いが与えられた場面があるが、体のあるところに起こる出来事がわたしにも主の恵みを覚える場と時であるのを自覚する。
コイノニアのホームページをみて更新された内容を読む。
柴田さんの時のしるしは面白かった。顔と顔をあわせてコイノニアの時と場を共有した方のメッセージはインターネットのバーチャルでもリアリティを持つのが解った。
同じようにバーチャルでありながら嬉しいお便りがわたしのブログに寄せられた。
ホワイトシェパードを飼っている米子にお住いのちょつとろくさんからの私たちのセカンドライフへの応援メッセージ。
辺鄙な人の通ってこない山の中の暮らしに届けられる暖かいバーチャルな声。
人はリアリティの時と出会うのはその人の体のある場所でことに出会うからと私市さんは言っていたが彼によると、こととは出来事と言葉であるが主の十字架のように出来事はそこに肉体が経験した時があるその経験の言葉が人の経験に伝わる時に真実が生れるのだ。
ちょつとろくさんの経験に一緒に暮らした犬との時が私たちの経験と重なるからだろう。キリストの死と復活も父の御力を経験したものにリアリティとして腹の底に実感する。
バアチャルか現実か区別は判断に必要のない時が身近にやってきている。
必要なことはそれが人に真実か否だ。そこに愛があるかどうかで人の現前の現れ方が異なって見えてくる。