2014年12月14日日曜日

待降節第三主日



La Chapelle de Calon Saint-Estephe 2011

    





ナザレのイエスさまの流された血を思い巡る時、わたしは主の言れた新しい契約と。
神の国とその義と永遠の命のすべてが、聖霊によって大きなものから小さいものまで互いに教え合うこともなく知るようになるとエレミヤが語る事柄がベッレヘムのみどりごの主権に成就したと思っています。




ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、




その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。

私たちに与えられるクリスマスのプレゼントについて考えてみよう。


法とは臣下に対する主権者の意思です。

それ故、法はその社会の神の言葉を示します。

誰の法が支配しているかを知ることによって、誰が神であるかわかります。 
 
長い間神の民の間には神の法が法として機能していました。

それは。イスラエルとキリスト教国を問わずです。

それが国家の法に変わったのは、新しいことであり近代に始まる出来事でした。
 
R・J・ラッシュドゥーニ

 R・J氏の言葉によると主権者の意思は臣下に法として現れると表現されています。
私は神の法が国家の法に変わったのは主権者であるイエス(み言葉)に人間がヒューマニズムの側面を知ったからだと思っています。すなわち神の真実に人々が目覚めたのです。

しかし目覚めた人々の国家には未だクリスマスに誕生された主権者と臣下の親密な関係は到来していません。 
聖書の受肉であるナザレのイエスがメシアであると認める国家には、羊のために命を捨てる羊飼いがいるはずなのが、現実の政治では主権者は雇人のように羊を盗み。狼が来れば、羊を置き去りにして逃げ去っています。
 
私には現在世界に席巻している国家は未だ完成したものではないように思えます。
なぜなら主権国家を構成する多くの人々はナザレのイエスの贖いを未だ知らないからです。

一例をみ言葉と国家間の関係からみてみましょう。
何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。マタイ7:12 
現在の国家主権は、主権の適応範囲は自国のみで、他国に及びません。
国と国の関係が新たに国際法として必要になるのです。

国に受け入れられない人々、主権者から遺棄された人々は難民となり彷徨い最後はイエスの愛、ヒューマニズムを最後の頼みとしているのは、国連高等難民弁務官がよく知っていることです。




「生きている人間こそ神の栄光である」。エイレナイオスのこの断言は、キリスト教的ヒューマニズムの合言葉と見なされうる。

「神の栄光」となるのは、神をほめたたえたり、賛美したりすることよりも、神によって生かされている人間として生きることである。したがって、人間を小さく見せたり、その能力を否定したりすることではなく、あらゆる面で人間の命を育むことが、神の栄光となる。もちろん、エイレナイオスによれば、神との正しい関係こそ、人間が真に生きるために最も必要なことである。事実、上に引用した彼の言葉に続くのは、「人間の命、それは神を見ることだ」という断言である。  

   ―キリスト教的ヒューマニズム―
ペトロ・ネメシェギ

イエズス会日本管区-【イエズス会について】管区の組織
 



               
                
      
                   
                            アドベント第三主日礼拝貝塚聖書教会
神のこどもとされる特権
詩編2篇1-12
讃美歌96
ヨハネ1:6-13
教会福音讃美歌30





唯一永遠の神が主権者であるので、罪びとの歴史(地上の政治)をキリストの愛に導かれる。
ご自身の主権をもった導き方を詩編2篇1-12で見てみよう。

なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。
地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、
主と、主に油を注がれた者とに逆らう。
「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」

天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。
ここに主は怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」

「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。
あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。
わたしは国々をあなたへのゆずりとして与へ、地をその果て果てまで、
あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
焼き物の器のように粉々にする。』」

それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地の裁き司よ、慎め。
恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ御子に口づけせよ。
主が怒り、お前たちが道で滅びないために。
怒りは、いまにも燃えようとしている。

幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。





詩編のあなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。とここに奥義があるように思えるのです。

聖書の語る神が生んだ人々は。

ベッレヘムの馬小屋の飼葉おけにねむる幼子であり、
幼子を受け入れた人々である。

血筋によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、
神によって生まれたのである。

神によって生まれたものに
「国々をあなたへのゆずりとして与へ、地をその果て果てまで、
あなたの所有として与える。」とされている。

神を受け入れた人々、すなわち譲りの地を与えられた人々は、果たしてその地で何をするのでしょう。
主からあなた方は全世界に出て行ってわたしを宣言せよと宣教命令を受けています。

つまるところ私は御子にある、まことの光(み言葉/法源)を譲りの地で述べ伝えること、つまり御子の主権を知らせ共に仰ぎ見て従う(遵法)することになる。
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」

今日の山里牧師のメッセージによるとエデンの園/神の国への復帰する人々と譬えられています。
神の子とされる特権に与っている。イエスとともに御父の真の光を証しする。
ヨハネ1:9にすべての人を照らすの後に( 愛の/ナザレのイエスのヒューマニティ)を加筆したくなる私の気持ちがご理解いただけるでしょう。




わたしは何を言いたいのでしよう。
整理してみましょう。主権について聖書から考えていたのです。すなわちクリスマスにお生まれになった方の肩に主権があるということ。そしてその方は弟子たちに祈りを教えられたときマタイ6:13
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメンと父のものと語っていること。

このこと主権について考えないわけにはいけません。





主権
しゅけん
sovereignty元来「至高性」をさす観念 
『崇高』 至高性は天の父と御子とイメージで結びつきます。聖霊も一緒に至高性を持つはずです。となると聖霊の宮である私たちの人格も至高性をイエスさまによって神の子とされて持っているはずですから至高性で繋がります。

すると御父にある主権はみどりごとそれを信じる私たち一人一人の人格にある。ということもお門違いではないでしょう。

 
大辞林 第三版の解説
主権
① 他国の意思に左右されず,自らの意思で国民および領土を統治する権利。独立権と同じ。
 ② 国家の意思や政治のあり方を最終的に決定する権利。
とあります。

元来の至高性が国家の主権に変転して行った過程をたどってゆけば解って来るのでしょうが
今は歴史的に支配者である君主についてみてみましょう。
sovereign、支配者、君主という単語です、ベッレヘムの幼子は平和の君(主)といわれますから。
メシア救世主 ヘブライ語マーシアハ משיח の英語発音メサイアMessish がぴったりです。
メシアのギリシャ語がΧριστοςクリストスですからイエスキリストは文字どうりイエスは大祭司、王、です。

ベツレヘムの幼子にマーシアハの称号が何故付けられたのでしょう。ウイキーペデアより抜粋
出エジプト記には祭司が[2]サムエル記下には王が[3]、その就任の際に油を塗られたことが書かれている。後にそれは理想的な統治をする為政者を意味するようになり、さらに神的な救済者を指すようになった。ユダヤ教におけるメシア(w:Jewish Messiah)はダビデの子孫から生まれ、イスラエルを再建してダビデの王国を回復し、世界に平和をもたらす存在とされている。


従来主権は地上では王に唯一属していた、西暦元年にベツレヘムで生まれたみどりごに主権があると誰が認めただろうか。史実この方は成長しゴルゴタの丘でローマ兵により磔の刑で死を遂げている。この方に従った弟子たちがこの方が復活したと述べたことから再びこの方の主権が復活するがそれはそのことを信じる者だけのうちに始まっているだけで当時も現実的にはイスラエルはローマ皇帝の主権に服していた。

ベッレヘムの飼い葉おけに生まれたみどりごに神の主権があると認めるのはそれを信じることでしかみどりごの主権は地上に現れてこない。神の義が信仰によってはじまるとはみどりごに主権を認めることが人々の口で告白する信仰によらなければ始まらないことを意味している。
口で告白して救われるのは、主権がその時地上に生まれるからである。西暦元年のみどりごの主権が口で告白するものとともに確立してゆくのです。これは聖書の神が聖霊によってイエスを通し信仰者を通して創造されたことです。

イエス以前から歴史的に主権者は人を支配し主権領域国家を形成している。然しどんな主権者であろうと、主権の構成員である被主権者の支持を必要とするのです、承認/支持を失えばこれも歴史が語るように、たちまち主権者は力を亡くし消え失せます。すべての人に自由に判断の灯りをともすのは悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる御父のもとより賜る聖霊だからです。

みどりごの主権は増々輝きを持ちみどりごを自由に承認する人々によって告白され力を増しているのは実のところ地上の主権者たちに本来の主権の在りざまを天の父が教えておられるように私には思われる。














神が創造される主権は信仰者によって初められ地上の主権者へ執成されてゆきます。
それは私たちがこのイエスの深さ高さ広さを聖霊によって知ることによって譲りの地が神の愛に満たされるためです。罪に囚われの人々が自由へ解放されてゆくためです。




三本ともっている教会のアドベントの蝋燭を見て、現実のキリストの到来に胸躍ります。私はローソクを見て同じようにともし火をともして花婿を待つ10人の娘たちの話が目の前に浮かんでくる。






花婿を迎えるためにともし火をともして花嫁との祝宴の時を待っている。




ずいぶん待ちくたびれた末にやっと花婿が到来したと思ったら肝心の迎えるためのともし火が消えそうになる。油を用意していなかったので買いに行っている間に宴会が始まり、戸が閉まる。




賢い娘は油を用意していたので花婿とともに祝宴に入る。さてイエスさまは私たちにこの譬え話を通して、なにを教えておられるのでしょう。






みどりごの主権が地上で成就するには、主権の構成員一人ひとりにある、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれた霊による働きが必要だと教えている。

あめより響く妙なる調べを聞き逃した人たちは結局御国の祝宴に間に合わなかった。
まだアドベントまで一本残っている。妙なる調べを耳に罪に傷ついた人格を治癒されて他者(神)と交わることのできる天来の自分にたちかえりべッレヘムのみどりごの主権である永遠の命の一灯を不思議な助言者に助けられて共にともし続づけよう。




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