2013年10月26日土曜日

いちじくの実



朝飯にイチジクが出たので、イエスがイチジクを呪う聖書の箇所を思い出した。
イエスと呪いがわたしにはどうも結びつかなかったので意外だった。





聖書でイチジクの出て来る箇所をおさらいすると。
ルカ13章6~9
「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。

そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。




すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。




ホセア9-10
わたしはイスラエルを荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖たちを、いちじくの木の初めに結んだ初なりのように見た。



エレミヤ8-13
主は言われる、わたしが集めようと思うとき、ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木に、いちじくはなく、葉さえ、しぼんでいる。わたしが彼らに与えたものも、彼らを離れて、うせ去った」。 




旧約聖書に描かれているイチジクは神の民のイスラエルの信仰を象徴している。





私たちクリスチャンも同じように、葉ばかりを茂らせて実のならない信仰は、場所ふさぎなイチジクのように主から呪われ枯らされて捨てさられてしまうのでしょうか。



パウロが同朋イスラエルに語っている言葉が印象的だ。




すなわち、神はすべての人を憐れむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのであるああ深いかな神の知恵と知識との富は、そのさばきは究めがたく、その道ははかりがたい」 (ローマ11:30-32)




人は他の人の行いによって恵みを得る。
恥も失敗も、他の人のためには成功と栄光の糧となる。



だから私たちは関係の中に豊かな実を意図せずに結んでいるので、
自分の義を立てる信仰は旧約時代のイスラエルの人達の轍を踏むことになる。





イエスは安心して行きなさい。「あなたの信仰があなたを救ったのです。」といわれた信仰とは一体どういう信仰なのでしょう。








 

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