2013年7月24日水曜日

自由について対話がある



自由は人格が他者の人格と交わることをさまたげない。




 
 





 
 




また人間にとって一人一人の人格が自由なため、自由が他者を支配することに陥ります<罪>。他者を所有する(殺す)ことは他者を完全に支配することだからです。





 




社会は大勢の自由/人格が出会う場であるので


 





殺す/殺されることを避けるための
人の際限のない自由を制限する要請が自然と生じてくる。

 







他者と平和に共存するためには、
際限のない自由を制限する法を人は要請するのです

 




こういうわけで他者との交わりが平和であるためにお互いの自由の矯正が求められているのです。

 

 






 

わたしのささえるわたしのしもべ 、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。

わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義ををもたらす












まことをもって公義ををもたらす神の方法は対話です。
顔と顔合せ主の霊を仰ぎ見る対話です。
 





十字架に公開された神のまことの霊を知ることから始まります。
 
 





<ひとりひとり対話することで公開のもとで新しい言葉・人格が創造される>

 








対話において忍耐が要請されます。



もの言えば唇寒し秋の風 ⇔ 他者に言葉が受け入れられない。 

 







それで多くの人は次の対話を試みることになります。
一方的であれ発話者の言葉が他者に届くことを優先するのです。


しかしそれも私は失敗だと思っています。なぜなら、
旧約聖書の神の命令では他者が心から同意しないからです。

 

わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。 旧約聖書 イザヤ書55911





それに比べ次の方は言葉が命令服従関係ではなく受け入れられしかも受け入れたものとの交りがあります。

 

だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。ヨハネの黙示録3:20

聖書の中に著されている神様と人との対話からも一方的から双方向へ変化がみられる。




キーワードは双方向性です。

人と神との対話である聖書も契約という言葉で二つの契約があることは自由・人格の自由の成熟度<進化>を語っているのではないかと思えてくる。

 




人格の自由な交わりである対話は、わたしが他へ贈るもので他とともに喜び憩う(イエスの愛の御業)のようです。






 
面白いことに異なる人格をもつているゆえに対話は多様性を要請し
またお互い相違する人格ゆえに敵意を和解/歓待に変えてゆく
イエスの愛が養われる必要があるのです。








対話こそ他の人間に向けられた、愛だからです。
 

 





また異なる人格は対話に多様性な姿・真実を見つけることでしよう。






信仰と希望と愛の実現が他者との対話にあるからです。





母をみことばの約束からみつめれば主イエスと憩うために地上の命を終えることになります。







































 

2013年7月16日火曜日

留津さん宅の礼拝



栄子が来て母をトイレヘ。
父親のことを聞くと土曜日にバルーンの尿をためるパットがいっぱいになり
漏れ出したのでバルーンをとってしまったとのこと。
その後休日で病院には行けず様子見していたころ尿が出てきたので喜んでいる。
栄子が手放しで喜んでいるのでわたしは腹を立てた。




そんなのは事故にしか過ぎない。未然に防げなかったことの方が重大だ。
しかも様子見するのは施設の判断で尿が出てきたと喜んでいる栄子に失望した。
以前から膀胱から漏れ出たものが出ていたことになんら変わらない。
何故バルーンを挿入した医者に治っているのか確認しないのかわたしは不思議だ。




留津さんの家に行く前、トイレで母の便を妹と取っていたが、妹の判断について詰問するとわたしの怒りにおびえて家を逃げ出した。
雅子はお母さんを放ったらかして行ったらアカンよと言う声に対しても振り向くことは無い。




その後栄子は留津さんの家に行ったようだが、みんなに慰められて家に帰って行ったそうだ。



トイレで母の便を雅子ととって、お尻を洗い、褥瘡の薬を塗って食卓へ。

 

朝食と、水分牛乳200cc ラコール200cc 白湯400ccをとる。



ベツドヘ母を寝かして留津さん宅の礼拝に参加する。



池尻牧師の後任の山里牧師の説教。
レビ記よりモーゼが会見の幕屋に入って行くことができたのは神がモーセを呼ばれたから、神と出逢うことに、主さまからの呼びかけがあることがレビ記に顕わされた礼拝の姿、主の日に神のみ前に出ることができるのも神さまからの呼びかけによるのです。



わたしは彼に尋ねた、自分で罪が克服できるだろうか?
罪が赦されるのもまさにモーゼが神さまの呼びかけに負うとすれば主イエスの働きかけ恵み以外ありえない。とするならば、己の罪に敏感になりそれを克服するように努めるつまり前回の牧師の説教で自分の罪に打ちのめされ悶々とすることの経緯なしにはキリスト者と言えないという言葉はどこか罪に対してコントロールできる傲慢さを感じる。

己の罪に気づくこととと罪について真摯に自己が対処することとそこに何の関係がありましょう。罪は神さまに許されるのです、しかもこの罪は自己の罪がゆるされることと他者の罪を赦すことと関係していることをイエスは聖書で述べています。



罪びとのお互いが他者を赦し神の国を引き継ぐことにイエスの主眼があります。


自分の罪に真摯にならなくても、いち早く他者と交わるとき私の罪に被害を被っているでしょう。わたしに指摘してくれる他者はわたしにとって恵みです。他者はイエスのようであると言えます。しかも赦してもらうしかないのです。




わたしは罪は山里牧師がおっしゃったように気づき口で告白して神さまに赦してもらう
ことですという意見には賛成です。
罪は個人が個人の中で処理できるものではなく、公開し他者の前に差し出して許しを請うこと以外赦しが得られないとも言えます。
イエスが許してくれるので他者も許さざる負えないとわたしはおもつています。
つまりそのことが私も他者を赦す根拠なのです。





クリスチャンにとって罪の問題は公開すること、イエスの開けエパタと言われることを
実行することにつきます。
池尻牧師が自分の罪に呻吟するようにしなくてもいとも簡単に公開で他者の批判にさらされることの方が罪についてはもつと本質的に実質上解決する糸口になるように思えます。
 いずれにしても公開された罪をゆるしてもらうしか私たちにはできようがないとすれば
自己の内の罪意識の紋々はナンセンスの極みであると言えます。





イエスの救いについて教会で説教されているが、自殺者が教会ででることは教会の敗北と言える。むしろ罪はキリスト者の交わりである教会を嘲笑って勝ち誇っていることの証しである。
そのことを考慮せず主イエスにより言葉を持たないまま(公開し罪を告白しないまま)罪についてメッセージをする傲慢・がわたしの・落胆・である。





ここまで言うと池尻牧師は自殺者を食い物にしていると突然叫びだした。
そうなのです私たちはイエスに倣って他者にとって食い物にされる立場なのです。
関係することとは己の罪に敏感になることでも他者の罪に敏感になることでもなく、他者の食い物になるほど他者との濃密な関係性・愛にあるのです。




そのためには自己のうちに他者をとりこんではいけません、
お互いに自由であるために真実な言葉を聖霊により生まれてくることを希求されるのです。

「聖霊よ来りませ、それぞれの見知らぬことばで語ることが教会に来りませ。」

人まねでもみことばの光のような擦り込みでもない創造者から直接新しい言葉をひとりひとりにとどき主の真実が見えてきますように。

なにより自分とは相違する他者のことばの内にイエスの恵みが満ち満ちているように他者がわたしの恵みとなるのです。

それぞれが神に自由にかたちづくられていることによりそれが可能なのです。

罪とはそれぞれ神さまから息を吹きかけられて生きたものになった人格・自由を
それ以外の賢いもののようになることで神の息を大切にしないことかも知れません。




 

2013年7月13日土曜日

 生死の中の雪ふりしきる



足が立たなくなったので顎を支えて雅子は傷をつけた。
トイレでパットの交換が難しくなる。




体温の維持が外気温に影響されるのでAmazonで温湿度計を買った。
温度30.1℃湿度45%クーラーをつけた数値。





土曜日は魚屋さんの訪問の日、雅子は鱧と大きなエビ四匹、烏賊の造りをもらって
お昼ごはんにする、わたしはワインのために野菜サラダに海老をいれてほしいと注文する。





ショーを楽しみながらクルーズの贅沢。







母は既に食事を終えています。





まもなく、母とのお別れの時が来る。