エペソ一章一節から十四節
パウロは冒頭から神への賛美を捧げて。
神の栄光はキリストにあってあまりにも豊かであると告白していました。
パウロ自身、ダマスカスでイエスの御声によってモーゼとイスラエルの神は己の思いをはるかに超えておられることを思い知らされている。
パウロの実感をわたしたちは聖書によって日常の暮らしで再体験することになる。
アブラハムやイサクやモーゼの神は私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようとしておられることに牧師は感動していました。
聖霊を受けたからです。
パウロと同じように聖霊を受けて神の真実を知ったのです。
日々人々の暮らしで聖書にあるパウロの言葉を、
わたしたちは体験出来ると神が証されているのです。
木岡さんは夫と死別後、自宅を売却して一人マンションで暮していたが今はそこ出て老人ホームで暮らし始める。
なんでと尋ねると、一人で天に召される暮しのために選択したとのこと。
結婚して所帯を別にしている娘さんに心配をかけたくないという事が心の奥にあるらしいが、娘さんに気を使うことはおかしいと岡本さんは言う。「わたしは、一人で暮してそうして死んで行っても本望です。だから誰も私のことを心配せんといてと言っている。」
先日米寿をお祝いした松田さんは「そろそろ死ぬこともあると考えせんとアカンと思っている。いつ死ぬかわかっていたらいいんやけど」と言っている。
内田さんは、「イエスさんは天であなたがたの住まいを準備したらもどって来てお迎えすると行ってはるから、まだお迎えがないのは準備できていないんやわ」と思っているという。
教会に行けば、それぞれ人の言葉に出会う。
悠子の後輩が近々結婚するという。
教会の受付にいた婦人がいつも夫に頼っていたのが、
単身赴任中の夫に相談できずに娘の緊急の病に際して
自分がしなければならない決断の重大さを思い知ったとのこと。
先ほどの結婚する息子の父親は遠く離れて暮らしているので
なにごとも具体的に身近に感じられないという。
透析で週三日病院に通っているが、透析を受けている心境を同じ病になって死んでいった学生時代の友人が優しくしてくれて嬉しかった思い出が、今同じ病になってまた慰められている感覚であるという。
キリストにあって自身の病と向き合う言葉をお聞きしたいと思っている。
悠子も母になるだろう。母親にこどもが誕生するように、
いろいろな子どもの親の死と別れもある。
わたしは日常で死を語る人がいることが今はなにより嬉しい。
教会でも日本の社会でも死を迎える人々が身近にいる、
身近な人をみなくて避ける祭司やレビ人には聖霊は真実な言葉を
顕さないだろう。
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