2011年12月29日木曜日

冬の幸福なひと日に 自由=言葉=人格



『神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の 厳しき国言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり』(抜粋)山上憶良






はじめにことばがあった。ことばは神と共にあり、ことばは神であった。- ヨハネによる福音書1:1.





―子等を思ふ歌一首、また序  
瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ  
いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて 
 安眠(やすい)し寝(な)さぬ

反歌  
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも











子供たちをわたしのところに来 させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

 
ナザレのイエス




数千年昔のイスラエルやギリシャ・ヘレニズムの地でも、700年代の日本の地でも言葉は意思人格を人々が暮らしのただなかで他者に発話している。

2011年の日本の暮れの幸福なひと日に
ナザレのイエスが十字架に神を開示したように


民主主義はそれぞれの言葉によって、ひとりひとりの自由=人格を開示しているのに気付いた。



イエスが死人の中から復活したように、十字架によって購われたひとりひとりの自由もまた人格をもつ言葉として。

復活する。



いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。







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