2019年11月24日日曜日

大山に秋が深まるように長崎でのローマ教皇のスピーチが森に響き渡る



愛する兄弟姉妹の皆さん。

 この場所は、わたしたち人間が過ちを犯しうる存在であるということを、
悲しみと恐れとともに意識させてくれます。




近年、浦上教会で見いだされた被爆十字架とマリア像は、

被爆なさったかたとそのご家族が生身の身体に受けられた筆舌に尽くしがたい苦しみを、
あらためて思い起こさせてくれます。


 
 
人間の心の中にある最も深い願いの一つは、平和と安定への願いです。

核兵器やその他大量破壊兵器の保有は、この願いを叶える上で、最も的を得た答えとは言えません。


それどころかこの願いを常に試練にさらしているように見えます。


 
私たちの世界は、邪悪な矛盾を抱えています。

安定と平和を望みながら、恐怖と不信に基づく偽りの安全の下で平和と安定を築こうとしています。

それによって、国民同士の関係は蝕まれ可能なはずの対話が阻害されています。



世界の平和と安定は、相互破壊への恐怖や壊滅の脅威に依存にする
行為とは、相入れません。





連帯と協力という世界的倫理を持って将来に奉仕し、

現在と未来の全て人類家族が互いに助け合い、

共に責任を果たすことによってのみ、


平和と安定が可能になるのです。




この街は核兵器が人類と環境にもたらした大惨事の証人です。



軍拡競争に対して、もっと大きな声を上げ続けなければなりません。



軍拡は、貴重な資源を無駄にしています。

その資源は、人々の全人的発展や、環境保護に使われるべきです。




今日世界には、何百万の子供や家族が非人間的な状況の下で暮らしています。

兵器に大金を費やし、兵器の近代化、維持、販売で大儲けし、兵器の破壊力を増す。


これは神に背くテロ行為です。




 平和で核兵器のない世界は、世界中の何百もの人々の切なる願いです。


この理想を実現するには、全ての人の参加が必要です。


個々人、宗教団体、市民団体、核兵器保有国、
そして非保有国、軍需産業、民間団体、国際機関の参加が求められます。




核兵器の恐怖への答えは、集団のコンセンサスに基づくものでなければなりません。


そのためには、
困難でも相互信頼という堅固な土台を築き、不信という支配的な流れを
壊さなければなりません。




1963年、聖ヨハネ23世は、回勅、地球の平和(バーシェム・イン・テリス)で、
核兵器の禁止を訴え、


真の安定した平和は、軍事力の均衡ではなく、

相互信頼という土台の上でのみ構築できると述べました。




今ある相互不信の流れを壊さなければなりません。


不信が拡大し、武器を制限する国際的枠組みが崩壊する危険があります。



また、私たちは多国間主義の弱体化を目の当たりにしています。


兵器の新たな技術が開発されていることを考えると、これは由々しき事態です。


こうした動きは、人々が強がりを強める今の世界と矛盾するものであり、
世界の指導者がより注意を払い対処すべき問題です。



カトリック教会としては、人々の国家間の平和実現に向けて不退転の決意を高めています。

それは、神・に対して、この地上に人々に対する私たちの責務です。




私たちは、迅速に行動を起こし、訴えていきます、軍縮や不拡散についての主要な国際法の原則に従い行動し、訴えていきます。




この原則には、核兵器禁止条約も含まれます。


昨年の7月、日本の司教協議会は、核兵器廃絶を呼びかけました。

また毎年8月に、日本の教会は、
平和に向けた10日間の祈りの会を行なっています。


どうかこの祈りが、合意の形成に向けてのあくことなき模索が、
そして対話の努力が私たちのパワー、

すなわち武器となりますように。






そして平和を真に保証する正義と連帯の世界実現に向けての努力を鼓舞しますように。



核兵器のない世界は実現可能であり、かつ必要されている。



この確信を持って政治の指導者の皆さんにお願いします。




核兵器は、世界の、または国家の
安全の脅かす脅威から

私たちを守ってくれるものではないということを、忘れないでください。


人道的観点から、環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な破壊を考えねばなりません。




また、恐れ、不信感、敵意など、

核の理論によってもたらされる感情が増幅するのを食い止めなければなければなりません。



現在の地球について、その資源が、どのように使われているのか、真剣に考える必要があります。




複雑かつ困難が伴う持続可能な改革のための2030年アジェンダの達成、

人類の全人的な発展というこの目的を達成するためにも、

地球の資源の使われ方を真剣に考える必要があります。





1964年、すでに教皇パウロ6世は、
貧しい人々に対する、援助のための世界基金の創設を提案しています。


防衛費の一部を元に創設される基金です。


これらを実現するためには、

信頼関係と相互の発展を確かなものにする構造を築くことが極めて重要であり、

このような状況に対応できる指導者の協力を得ることがまた大変重要でもあります。


これは私たちが関わる使命でもあるし、またそのために皆が必要ともされています。





今日大勢の人々が苦しんでいます、彼らの苦しみに私たちの良心は痛みます。




このような彼らの苦しみに無関心でいるのに許される人は一人としていません。

また傷の痛みに叫び声をあげる兄弟の声に、

耳をふさぐことを許される人は一人としていません。




対話を否定する文化がもたらす破壊を目の当たりにして、

目を閉ざすことを許される人も一人としていません。





毎日私たちと心を一つにして、祈ってください。

両親のために私たちと祈ってください。

また、命を大切する文化、赦しの文化、兄弟愛の文化が勝るよう祈ってください。




この兄弟愛は、

互いの違いを認め、

それを保証する愛であり、

共通の目的地を目指す中で、互いの違いを認め合い、保証しあう愛です。




ここにおられるみなさんの中には、カトリック信者ではないみなさんもおられることでしょう。

しかし私たち全員が祈ることができると信じています。




アッシジの聖フランシスコに由来する平和の祈りが、
私たち全員の祈りとなると確信しています。





主よ、私をあなたの平和の道具としてください。




苦しみがあるところに愛を。




諍いがあるところに赦しを。




絶望があるところに希望を。




闇に光を。



悲しみにあるところに喜びをもたらすことをしてください。




記憶をとどめるこの場所は、私たちを覚醒し、

私たちが無関心であることを許しません。



そして神へのさらなる信仰がここから生まれます。





また私たちが真の平和の道具となって、

働くよう導いてくれます。



そして過去と同様の過ちを犯さないよう、導いてくれます。




皆さんとご家族、そして全国民が、

繁栄と、社会の輪の恵みの享受できますよう、



お祈りいたします。
















見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。




それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。




それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。



それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。




主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。 
(133)
















 

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