2015年9月27日日曜日

中秋の名月



雅子がいないともっと寂しいのかと思っていたが、案外寂しくない。

ダニエルもわたしもいつもと変わらない。




森の中の生活は寂しくはなく、心地よい。




ここの生活はクルーズ船の上の生活に似ている。

人にサービスされて毎日を食べて飲んで過ごすだけの生活。





海原の景色は一向に変わらない。

たまに島などが見えると感激する。




幸いなことにロイヤルシティ大山リゾートは四季折々の変化がある。

今は栗が所々に落ちている。



森の中で、私の人生がいっ刻一刻死に近づいている気がする。
森の中でも永遠に生きる命に繋がっていることに気づこう。

永遠の命はこの単調な人の気配の少ない森で日々暮らす一つ一つに意味をみいだし生きる喜びを与え世に証しすることをさせてくれる。




日本のお月見の時期、古代ユダヤでは仮庵の祭りが祝われた。

ラッパを吹き鳴らす祭りから始まり大贖罪日があり、そして仮庵の祭りが始まり、トーラー歓喜祭で一連の秋の祭りが終える。



リゾート地では祭りはないが、ロイヤルホテルで開催される美食の宴か、リゾート交流会に参加して楽しむことがある。

人が集まって行うことでは共通するが、連帯感とは異なる個々の集まりになる。

古代イスラエルの祭りは人々が共同体から呼び寄せられて祭りを行い、祭りの参加者が祭りを行うことで連帯感を味わう。




仮庵の暮らしは変わらないのに、羨ましいことはイスラエルの人々に祭りがある。




わたしには祭りがない。

森の中で暮らすのも、伴侶の雅子が不在なのも

貧しい仮庵暮らしも

なんとも寂しくないが。

わたしに祭りがないのは寂しい。

ロイヤルホテルに美食を食べに行っても寂しさは埋まらない。











別荘に住むものがある日突然呼び出されて祭りを行うとしたら楽しいだろうなあ。

そのためには個々それぞれバラバラな関心が一つの歓喜に呼び起こされる経験がなければならない。暮らしの中でそれぞれに形成されるために途方もない生活での交流の時が要る。


祭りを行いたいという動機が一人ひとりに芽生え。


祭りを披くことができるのは恵みだ。

一人ひとりのこころに連帯を呼び起こし祭りに集まるように動機づける
そのような奇跡が起こらなければならない。




個々一人ひとり月を眺めて月を愛でることはできても。




共同体で祭りを行う経験を形造ることは、個人ではできない。

祭りは

参加する人々に自分の価値観や文化的背景を超えて他者の価値観や文化をも消すこともなく統合してゆく、新たな喜びとなる、祭りの主催者はまた傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす創造者だから。




エクレシア・教会は仮庵の祭りそのものだと思えてならない。

ナザレのイエスの霊に呼び寄せられて共に祭りを
暮らしのなかで味わい楽しみたい。







 

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