2015年8月15日土曜日

星のきらめく夜に



安倍首相の戦後70年談話を聞いて、ダニエルの散歩に行く。

日本の平和主義国家の目指すところを不戦の誓いとともに自由、民主主義、人権といった基本的価値をゆるぎないものとして堅持し世界の人々と共有して平和を創ってゆくことに貢献するという日本国家の姿勢に日本の国際復帰を暖かく支えてくれた多くの国と人々へ感謝をするとともに私も賛同する。

気がかりなのが、現在国会で審議している安保関連法案と戦後70年談話にある日本の平和国家実現とに不戦の誓いの言葉に不整合が見えるところだ。

不戦とは戦いを放棄することだ。

剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。(イザヤ書) ことだ。

平和国家よ、主の光の中を歩もう。



雅子と夜の灯りに感激。歩いて帰ってくるとき大成池で星を見上げている夫婦にであった。
こんばんは星の多いのには驚きますね、きらめく星空に見とれてしまいます。




夜空の星は今まで気付かなかった。
全国的な盆休暇で森のなかは灯りがあちこちにともっている。




家族団欒が暗い森の灯りの中にある。

我が家にも人並みに嬉しい訪れ、
志水さんから福屋の明太子が届く。

悠子と19日こちらに来るので、ご挨拶に。と御心ずくしが嬉しい。




ありがとうございます。
熱々のごはんと一緒に雅子と早速おいしく頂きまた。

心待ちにその日を待っています。






引っ越しの荷物はすでに整理できています。




大山リゾート別荘地は今休暇を過ごす人で賑わっている。
盆を過ぎればまた静かになり森の中の灯りも闇となる。




雅子と私たちはここからどこにも帰ってゆくところはない。
一週間ほどすれば賑やかな森も日常に戻るのだろう、が私たちはここが日常である。



泉佐野で農家を営む友人は仙人のように山で過ごせばいいと励ましてくれる。
その励ましてくれる友人のお兄さんが突然、淡輪の海で孫と遊んでいるときに亡くなった。




つい最近、盆休みに起こった出来事。
彼曰く兄の葬式で三日休んだため農作業がたまっていて寂しがっている暇はないという。




みんな一生懸命生きている。
やることがあって寂しがっている暇はないとはなんという恵み。

やることがなくて寂しがるのも多分同じような恵みだ。




で、ダニエルの散歩と風呂に入る以外なにもやることがなく時間のたっぷりあるわたしは
今、私市さんのエフェソ書研究ノートとベネディクト16世の説教を読んで聖霊なる御霊/神の知恵について勉強している。




参考にその一部を掲載する。
ベツレヘムでおとめマリアから生まれた幼子イエスのうちに、神からわたしたち一人ひとりに、すべての人に、地上のすべての民に与えられた救いを、聖霊によって見いだすことができますように。

 


 
「信じたがゆえに幸いなかた」であるこのマリアのうちに、みことばは肉となり、神は世に「現れました」。マリアの信仰は、新しい契約の民である教会の信仰の初穂であり、模範です。しかし、この新しい契約の民は、最初から普遍的です。わたしたちはそのことを占星術の学者たちの姿のうちに見いだします。彼らは星の光と聖書の指示に従ってベツレヘムにたどり着くからです。





マリアの信仰はアブラハムの信仰になぞらえられます。それは、同じ約束の、すなわち、変わることのない同じ神の計画の新しい始まりです。この神の計画は、今やキリスト・イエスのうちに完全に実現します。キリストの光はあまりにも明るく強いため、宇宙の言語も聖書のことばも理解できるようになります。そして、占星術の学者たちと同じように、真理に心を開くすべての人は、この言語を知り、世の救い主を仰ぎ見るに至ります。






キリストの公生活の始まりを告げるこのわざは、受肉と同じ線上に位置づけられます。受肉とは、神が天の高みから陰府(よみ)の底に降ることです。この神の降下の動きの意味は、愛の一語に要約されます。愛は神の名そのものです。使徒ヨハネは述べます。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。そのかたによって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちのうちに示されました」。神は「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」(一ヨハネ4910)。だからイエスが行った最初の公的なわざは、ヨハネから洗礼を受けることだったのです。ヨハネはイエスが来るのを見ていいました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ129)。





このイエスは、神の子として、すなわち愛によって生きることを望む、新しい人です。このかたは、世の悪に対して、へりくだりと責任の道を選び、自分を救うことではなく、真理と正義のために自分のいのちをささげることを選ぶ人です。キリスト信者であるとは、このように生きることです。しかし、このような生き方は、人を生まれ変わらせます。それは、天から、神からの、恵みによる生まれ変わりです。この生まれ変わりが洗礼です。キリストは、人々を新しいいのちへと生み出すために、この洗礼を教会に与えました。

 

「花婿が花嫁を喜びとするように、あなたの神はあなたを喜びとされる」(イザヤ625)。ぶどう酒はこの愛の喜びを表す象徴です。しかしそれは、イエスが人類との婚姻の約束を果たすために最後に流す血も暗示します。
 教会はキリストの花嫁です。キリストはご自分の恵みによって教会を聖にして美しいものとします。にもかかわらず、人間から成るこの教会は、つねに清めを必要とします。そして、教会の姿を醜くする最も重い罪の一つは、教会の目に見える一致に反対する罪です。とくに、キリスト者を分かち、いまだに克服されていない、歴史的な分裂です。

 




エスは、朗読を終えると、人々が固唾をのんで見守る中、こういわれました。「この聖書のことばは、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ421)。アレクサンドレイアの聖キュリロス(370380444年)はいいます。キリストの第一の到来と第二の到来の間に置かれた「今日」は、信じる者が耳を傾け、悔い改める力とかかわります(『詩編注解』:Expositio in Psalmos, PG 69, 1241参照)。しかし、より根源的な意味で、イエスご自身が救いの歴史の「今日」です。なぜなら、イエスは完全なあがないを実現するからです。聖ルカがしばしば用いる(1992343参照)「今日」ということばは、同じ福音書記者が好んだ「救い主(ソーテール)」という称号へとわたしたちを導きます。すでに幼年期物語の中で、この称号は天使が羊飼いたちに語ったことばに現れます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」(ルカ211)。
 親愛なる友人の皆様。この箇所は「今日」、わたしたちにも問いかけます。何よりもまずわたしたちは、主日をどう過ごしているかについて考えさせられます。主日は休息と家庭のための日ですが、それ以上に、主にささげられた日です。そのためにわたしたちは感謝の祭儀にあずかり、その中でキリストのからだと血と、いのちのことばによって養われます。第二に、現代という分散した気晴らしの時代の中で、今日の福音は、わたしたちの聞く力について自問させます。わたしたちは神について、神とともに語る前に、神に耳を傾けなければなりません





教会の典礼は、わたしたちに語りかける主に聞くことを学ぶ「学びや」です。最後に、この福音は、あらゆる瞬間が回心にふさわしい「今日」となりうることを語ります。毎日(カテーメラン)が救いの日となることが可能です。なぜなら、救いは、教会とすべてのキリストの弟子にとって、継続する歴史です。これが「その日を摘め(carpe diem)」のキリスト教的な意味です。あなたに救いを与えるために神があなたを招く、その日を摘みなさい。





なぜイエスはこのような断絶を招くことを望んだのでしょうか。初め、人々はイエスに感嘆し、ある種の合意に達していたように思われます。・・・・しかし、要点はここにあります。イエスが来たのは、人々の合意を求めるためではありませんでした。むしろそれは、最後にピラトに述べたとおり、「真理についてあかしをするため」(ヨハネ1837)でした。真の預言者は神以外の何ものにも従いません。彼は進んで自分を犠牲にしながら、真理に仕えます。イエスが愛の預言者であることは真実です。しかし、愛にも真理が伴います。そればかりか、愛と真理は同じ現実の二つの名です。すなわち、神の二つの名です。今日の典礼の中で、聖パウロの次のことばも響き渡ります。「愛は・・・・自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ」(一コリント1346)。神を信じるとは、偏見を捨て、神がご自身を示される具体的なみ顔を受け入れることです。すなわち、ナザレのイエスという人間を受け入れることです。この道はさらに、他者のうちにイエスを見いだし、イエスに仕えることへと導きます。

 

 

わたしたちの主イエス・キリストの神、

栄光の父が、

あなたがたに知恵と啓示の霊を授与するように

彼の知識において。

私市 エペソ1:17






祈りが何よりも重要なことです。祈りがなければ、どのような使徒職も愛のわざも活動主義に陥ります。四旬節にあたり、個人としても共同体としても、祈りにふさわしい時間を当てることを学びたいと思います。祈りはわたしたちの霊的生活に息を吹き込むからです。さらに祈りは、ペトロがタボル山でしようとしたように、世とそのさまざまな矛盾から自分を孤立させるものではありません。むしろ祈りはわたしたちを歩みと行動へと引き戻します。「四旬節メッセージ」で述べたとおり、「キリスト者の生活とは、神に会うためにひたすら山を登り、神ご自身の愛のうちに兄弟姉妹に奉仕するために、神から注がれた愛と力を携えて山を下ることです」(同3)。    以上          教皇ベネディクト16
















次にコイノニアの私市さんの講和の抜粋



たとえイエス様にあるクリスチャンが霊の賜を活かす場合でさえも、肉を具えた人間である以上、そこに何らかの肉の働きが混入するのを避けることができません。1%のインスピレーション(霊感)には、99%のパースピレイション(汗)が伴うのです。行ないに熱心だと信仰が欠けていると言われ、信仰だけにより頼むと行ないが欠けていると言われます。だから、わたしたちのやることすることは、所詮この世では、お金同様「不正の富」にすぎません。しかし、たとえ地上の「不正にまみれた富」(ルカ16章11節)であっても、1%の御霊のために99%の汗をかいて、霊の仲間のために労するなら、主様の父はこれを善しとしてくださるのです。人が行なうことに「不正」のマイナス記号が付くのは避けられませんが、それでもなお、「不正」を覚悟の上で、御国のために愛の業を行なうなら、今回のご主人のように、マイナスの業にもプラスの記号をつけて、これを善しとしてくださるのです。人は、何をどれだけ行なったからではなく、「なんのために」それを行なったかで、その人の窮極の評価が決まるからです。
         
共観福音書講話へ     聖書講話へ







このように毎日が


雅子とダニエルと



丸山の大山リゾート地で


過ぎて暮らしている。









私たちは

 ここから


どこにも行かなく、



ここで、過ごし祈りを重ねて、


時々に


人びとのもとに



 山をくだってゆく。

























我が家から一番近いご近所のかた。


もうここに定住されて十五年以上たつ。



冬の暖房は薪だけと聞いて驚いた。

















































こちらはダニエルのお友たちのいるご近所さん。
ジュニアという名の犬がいる。






みんな一週間もすればここからいなくなる。



そして雅子とまた二人で過ごすことになる。



 












 

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