2014年11月30日日曜日

待降節アドベント第一主日に洗礼の喜びも重なる


今日は朝からうきうきした気分、洗礼式があることと、昨日のコイノニア会の交わりの興奮が残る。
司会の牧田さんが学費納入のためにUFJ銀行に行った時の話は興味深い。現代の日本社会模様を描いていた。
現金を片手にもう一方は振込み用紙を片手に窓口に行ったとき事件は起こった。



振り込みを急ぐ高齢者のために銀行の振込みに関するガイダンスがあるらしく。(振込み詐欺予防のため)すんなりと昔のように振込みすることができず、まず身分証明書の提出を求められたそうだ。学生証を見せたがそんなものは証明にならないといわれた。大学院へ振り込むために本人の学生証を見せれば十分だと思えるので、彼女はおもわずなんでやのんといったら振込み詐欺の説明を世間のことを何も知らないおばあさんに諭すように得々とされたらしい。

そのあと銀行取引の顧客情報に記入するように勧められる。ここでおかしいと思ったのか彼女曰くただ振込みしに来ただけの話やん。一連の出来事に彼女の立場には一切耳を貸さず一方的に店頭マニアル通りに応対するだけで顧客志向のない大柄な態度に不愉快を通り越して滑稽で馬鹿ゞしい思いをしたと言う。





そして思った。この銀行にとって私は人ではなく、銀行の事務手続きをスムーズに運ぶための記号でしかないのだと。そのあとが面白い聖書のうるさいドラやシンバルの意味がすんなりとわかったらしい。そこに愛がなければどんなに立派なことでも、大きな成果と収益を得ている銀行にみえてもすべては空々しいと実感したのだそうだ。




現在の日本社会に潜む大柄さは組織のシステムにみられる。
一般に情報は誰もが共有できるものだとするならば社会は情報に関してオープンであることが望ましい。しかし報道の自由は狭められているように情報を得る機会が意図的に管理されている。サイバーテロや財産の危機管理上、帰属する組織のなかでも人の行動が制限されて、電子コードで閲覧できる領域が管理され組織の上位の判断で入退室もそれどれ段階的にできなくなっている。そこに愛がなければ。個々の意識が猜疑に傾き防御的になりお互いの関係がよそよそしく信頼がなくなる、人々は分断されてゆき社会全体の自由な共同の場が衰えて行く。開かれた自由闊達な活動力が委縮してゆくとき人々の中から喜びが失われる。愛が増々冷える。




今年優良企業は史上最高の純利益を上げている反面、給料は伸び悩み正社員は減少し非正規雇用者が増加する。上場会社の10%に富が集中して地方や中小企業の収益を悪化させている。
男女間の所得格差も甚だしい。消費税を8%に引き上げても高齢者の介護には回らず企業税を減額しようとする。富める者が弱いものを顧みない、むしろ富める者は弱い者の富まで奪おうとする。そこに愛がなければ。弱者が暮らしを変えようとしても助け出してくれる方法が見当たらない。





いつの時代でも強者は奢り弱者を虐げてきたのが罪のある人の営みです。
そこに愛がなければ。敗者の逆転は起こりえなかったでしょう。
しかし奇跡は常に起こりました。







聖書は奇跡の証しのオンパレード
 
すべての人を永遠のいのちに招かれる。
 
2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。
2:2 終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい
2:3 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る。





2:4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。




2:5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。




主が再び臨れる時を期待で胸とどろかせながら待っている主の日に
み使いたちの喜びの賛美の歌声が教会の中に轟いています。
受洗式が執り行われました。




大きな喜びが天にある。
追放された者(罪ある者)を神は見捨てず。牧師は説教します。神の一人子の贖いにあらわされています。永遠の命の道をみ使いであるケルビムに守らせていたのが今やみ使い達が永遠のいのちのに至るものを賛美を持って迎え入れている。神と人とを仕切っていた神殿の垂れ幕がイエスによって取り除かれたからです。




大胆に父の身元に近づくことができます。逆転が起こります。イザヤは告げます。
終わりの日それは万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。アッシリアに攻められエジブトと同盟して人の力である軍事に頼ろうとするがイザヤは主の平和に目覚めよと冒頭の聖句。




主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。




イザヤのみ言葉を継承されているのはイエスさまで「柔和な人々は幸いです。その人たちは地を受け継ぎます。」マタイ5:5と言っています武力や権力に頼るのではなく天の父の霊性に頼ることを勧めます。柔和な人とは強引に人を従わせようとはしない人。他者と親密な関係を築くことを心がける人のことです。相反する利害の危機的衝突状況においても愛に基づく執り成しのできる知恵のひとです。主がこのように一人一人の知恵の人の自由な執り成しの出現に期待しているのでしょうか。
ひとりの人の神に愛された生き方のうちに主の解放の秘訣がありそうです。





目を覚ましていなさい。



わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。マタイ7:21




そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』





そうなのです自力の覚のない天来の一人ひとりの自由である隣人への愛の行為が聖霊によって人々に臨んだ時、奇跡は始まるのです。

万軍の主の熱心が人と人の間に信頼を回復させ、人は分断から連体へ、社会に公正がよみがえり、これによって裁かれる。自由な共同の市場が形成され、平等に開かれた闊達な活動力が勢いづき、人々の中に希望があふれる。永遠の命を愛し賛美してその大庭に入る。



 

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