2013年10月20日日曜日

主日礼拝



母をベッドに寝かせたまま私たち夫婦は貝塚聖書教会へ主日礼拝に行く。




山里牧師はエペソから前回の説教の後を引き継ぎ今日のキリストの満ち満ちた姿 ・・・、について説教する。
こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教えの風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、
愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。         

愛にあって真理を語りあらゆる点で成長しキリストの姿に達する教会について説教をしました。






教会から帰り、母を起こす。
トイレに行くために車椅子に座る。今日も目を開ける。
体温36.8℃ 室温20℃ 湿度75%





先週は雅子が同期会があり教会へは行けなかったので、久しぶりに教会で会う人々が懐かしく礼拝を終ってもみんなと話して時間を過ごした。





教会から出ようとすると牧師に出会う、わたしは礼拝堂の祭壇の横のオルガンの後ろの植物・観音竹が枯れているのを知っていましたかと尋ねた。




山里牧師は最近赴任してきたので植物の命のことまで(関心が/知ら)なかった。
観音竹はかつて見事に葉を茂らせていたがそれが邪魔になるのか葉を極端に切り詰められていた。わたしはそのことが悲しかった。




葉を切られたぐらいでは枯れないが水を注いでやらなければ枯れてしまう。
植物に水を灌ぐのは人間/隣人です。







そういう私も観音竹に水をあげずに葉を枯らせてしまったので、牧師に関心について愛と等しいと思っていると言った。




愛は具体的で日常的で生きている者への関心です。

貝塚聖書教会に集うものに、観音竹はその命を持って私たちに語っています。




観音竹の十字架の贖いとも言えるでしよう。






果たしてイエスのように観音竹はわたしたちに復活するでしょうか。




 

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