2013年8月22日木曜日

サンフランシスコ(講和)平和条約


終戦という言葉に戦争に負けたという言葉がなぜないのか、原爆による戦争被害国というイメージができたが何故中国や韓国から寄せられる歴史認識、(戦争加害者としての認識が日本の政治に公に出てこないのかが不思議でした。)

事実終戦まで現在の北朝鮮と韓国は日本の植民地でした。

中国は現在の台湾の蒋介石政権と毛沢東の政権と内戦が始まっていた。

そんな中で、

終戦記念という言葉に興味を持ち、ポッダム(ドイツの戦勝の地で宣言された)宣言すなわち日本の降伏をポツダムの地て宣言された条件で大東亜戦争(太平洋戦争)を終えることに同意するかまだ戦闘行為を続けるか否かのアメリカからの停戦シグナルを受け入れるか否かのに対して日本は受け入れたという事実がある。

この事実は重い。
 
 
軍部に対しては無条件降伏、一般市民と国家に対しては新しい民主的国家樹立。
人権の尊重と平和主義経済再生貿易立国の経済国家そこには戦勝国へ賠償資金捻出質のためでもあるが ・・・ 。
 
いずれにしても歴史的に日本はそれを受け入れ、戦後の日本の世代の私たちはその平和国家、民主的政治体制の日本を生きてきた事実は偽りのない生き証人であることには変わらない。




それでわたしは日本を占領した連合国のホツダム宣言にある
12条(日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退する。)から日本は占領から何時解放されたのか知りたくなった。



日本が主権を獲得したのは、サンフランシスコ(講和)平和条約の締結においてであった。1951年(昭和26年)9月26日、そして同時に日本とアメリカ合衆国との安全保障条約も締結された。



わたしは当時は二歳であったがわたしの周りで安保反対と大人たちの言う声を聞いている。



連合国(日本の敵対国)はアメリカだけではなくすべての敵との全面講和か単独講和か日本の国は世論が沸騰していたのだろう。二歳の私の耳にも聞き及んでいるのは。





サンフランシスコ(講和)平和条約を結ぶころには日本の占領総司令官マッカーサー
はいなかった、彼は朝鮮戦争1950年6月25日-1953年7月27日(休戦)の間に朝鮮戦争の指揮官でもあったがその職をトルーマン大統領の方針に沿わないことにより1951年4月11に更迭された。








マッカーザーの退任前後国際情勢はアメリカ合衆国自由主義圏とソ連と中国の共産圏との対立が激しくなる。
日本の連合国の占領においてもアメリカ合衆国とソ連と中国との占領政策も齟齬が生じてくる。




日本の主権回復はそのような歴史の中で実現した。



わたしの小学校時代安保反対に始まり。死の灰、カガーリン、宇宙船、メガトン爆弾(言葉)が日常にあった。




幾つの時代を越えて平和の国に平和の民が生き証人として生きています。

幾時代かがありまして茶色い戦争がありました幾時代かがありまして冬は疾風吹きました幾時代かがありまして今夜此処でのひと盛り今夜此処でのひと盛り






 

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