2013年7月16日火曜日

留津さん宅の礼拝



栄子が来て母をトイレヘ。
父親のことを聞くと土曜日にバルーンの尿をためるパットがいっぱいになり
漏れ出したのでバルーンをとってしまったとのこと。
その後休日で病院には行けず様子見していたころ尿が出てきたので喜んでいる。
栄子が手放しで喜んでいるのでわたしは腹を立てた。




そんなのは事故にしか過ぎない。未然に防げなかったことの方が重大だ。
しかも様子見するのは施設の判断で尿が出てきたと喜んでいる栄子に失望した。
以前から膀胱から漏れ出たものが出ていたことになんら変わらない。
何故バルーンを挿入した医者に治っているのか確認しないのかわたしは不思議だ。




留津さんの家に行く前、トイレで母の便を妹と取っていたが、妹の判断について詰問するとわたしの怒りにおびえて家を逃げ出した。
雅子はお母さんを放ったらかして行ったらアカンよと言う声に対しても振り向くことは無い。




その後栄子は留津さんの家に行ったようだが、みんなに慰められて家に帰って行ったそうだ。



トイレで母の便を雅子ととって、お尻を洗い、褥瘡の薬を塗って食卓へ。

 

朝食と、水分牛乳200cc ラコール200cc 白湯400ccをとる。



ベツドヘ母を寝かして留津さん宅の礼拝に参加する。



池尻牧師の後任の山里牧師の説教。
レビ記よりモーゼが会見の幕屋に入って行くことができたのは神がモーセを呼ばれたから、神と出逢うことに、主さまからの呼びかけがあることがレビ記に顕わされた礼拝の姿、主の日に神のみ前に出ることができるのも神さまからの呼びかけによるのです。



わたしは彼に尋ねた、自分で罪が克服できるだろうか?
罪が赦されるのもまさにモーゼが神さまの呼びかけに負うとすれば主イエスの働きかけ恵み以外ありえない。とするならば、己の罪に敏感になりそれを克服するように努めるつまり前回の牧師の説教で自分の罪に打ちのめされ悶々とすることの経緯なしにはキリスト者と言えないという言葉はどこか罪に対してコントロールできる傲慢さを感じる。

己の罪に気づくこととと罪について真摯に自己が対処することとそこに何の関係がありましょう。罪は神さまに許されるのです、しかもこの罪は自己の罪がゆるされることと他者の罪を赦すことと関係していることをイエスは聖書で述べています。



罪びとのお互いが他者を赦し神の国を引き継ぐことにイエスの主眼があります。


自分の罪に真摯にならなくても、いち早く他者と交わるとき私の罪に被害を被っているでしょう。わたしに指摘してくれる他者はわたしにとって恵みです。他者はイエスのようであると言えます。しかも赦してもらうしかないのです。




わたしは罪は山里牧師がおっしゃったように気づき口で告白して神さまに赦してもらう
ことですという意見には賛成です。
罪は個人が個人の中で処理できるものではなく、公開し他者の前に差し出して許しを請うこと以外赦しが得られないとも言えます。
イエスが許してくれるので他者も許さざる負えないとわたしはおもつています。
つまりそのことが私も他者を赦す根拠なのです。





クリスチャンにとって罪の問題は公開すること、イエスの開けエパタと言われることを
実行することにつきます。
池尻牧師が自分の罪に呻吟するようにしなくてもいとも簡単に公開で他者の批判にさらされることの方が罪についてはもつと本質的に実質上解決する糸口になるように思えます。
 いずれにしても公開された罪をゆるしてもらうしか私たちにはできようがないとすれば
自己の内の罪意識の紋々はナンセンスの極みであると言えます。





イエスの救いについて教会で説教されているが、自殺者が教会ででることは教会の敗北と言える。むしろ罪はキリスト者の交わりである教会を嘲笑って勝ち誇っていることの証しである。
そのことを考慮せず主イエスにより言葉を持たないまま(公開し罪を告白しないまま)罪についてメッセージをする傲慢・がわたしの・落胆・である。





ここまで言うと池尻牧師は自殺者を食い物にしていると突然叫びだした。
そうなのです私たちはイエスに倣って他者にとって食い物にされる立場なのです。
関係することとは己の罪に敏感になることでも他者の罪に敏感になることでもなく、他者の食い物になるほど他者との濃密な関係性・愛にあるのです。




そのためには自己のうちに他者をとりこんではいけません、
お互いに自由であるために真実な言葉を聖霊により生まれてくることを希求されるのです。

「聖霊よ来りませ、それぞれの見知らぬことばで語ることが教会に来りませ。」

人まねでもみことばの光のような擦り込みでもない創造者から直接新しい言葉をひとりひとりにとどき主の真実が見えてきますように。

なにより自分とは相違する他者のことばの内にイエスの恵みが満ち満ちているように他者がわたしの恵みとなるのです。

それぞれが神に自由にかたちづくられていることによりそれが可能なのです。

罪とはそれぞれ神さまから息を吹きかけられて生きたものになった人格・自由を
それ以外の賢いもののようになることで神の息を大切にしないことかも知れません。




 

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