2013年7月1日月曜日

文月のはじめ

あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでものばすことができますか。



そうです命は与えられて養ってもらっています。
主が母をとられるまで  ・・・・・  そのまま養ってもらていましょう。




昨日京都のコイノニア会に出席した。


 

前司会者がいちばんぼしの作者を紹介しました。
                   まど・みちお

           いちばんぼしが でた
           うちゅうの
           目のようだ

           ああ
           うちゅうが
           ぼくを みている



わたしは神さまに見られていることを実感する詩ですと、このように神さまを身近に歌う詩人からくまさんの詩をもう一つ紹介して

くまさん
                 まど・みちお

         はるが きて
         めが さめて
         くまさん ぼんやり かんがえた
         さいているのは たんぽぽだが
         ええと ぼくは だれだっけ

         だれだっけ

         はるが きて
         めが さめて
         くまさん ぼんやり かわに きた
         みずに うつった いいかお みて
         そうだ ぼくは くまだった
         よかったな

このさいごのくまだったよかったなと素直に自分を肯定できるところは、すきです。
神さまから(創造されている)愛されているという詩人の思いが出て素敵だ。

と語っていました。そのあと私市氏から一匹の羊の講和があり神の人を見る目に圧倒されました。一匹の羊






わたしは圧倒はされはしましたが、卑屈にはなりません。
わたしもくまさんのようにそれでもよかったねと肯定したいのです。




不完全なものが完全になることのは尋常ではない。人は完全になり得ない故になお赦しが与えられ、他者に支えられ、他者を支える関わりがあることに神とのかかわりの秘訣がありそうです。
気を張って大げさに支え支えられるというものではなくあたりまえに人が人とイエスのみことばを自由に語り平和のうちに暮らしているところに知らず知らずに到来してくる予感がするのです。


 
 
パウロの手紙が聖書になったように、祈るそれぞれの自由な人の真実な言葉の表現が不思議なものを自然と形勢して行くだろう。 
 
昼は昼に語り伝え夜は夜に知識を送る。詩編19編
 
 


母は留津さんに祈られて七月を迎えることができました。







 

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