自由は人格が他者の人格と交わることをさまたげない。
また人間にとって一人一人の人格が自由なため、自由が他者を支配することに陥ります<罪>。他者を所有する(殺す)ことは他者を完全に支配することだからです。
社会は大勢の自由/人格が出会う場であるので
殺す/殺されることを避けるための
人の際限のない自由を制限する要請が自然と生じてくる。
他者と平和に共存するためには、
際限のない自由を制限する法を人は要請するのです。
際限のない自由を制限する法を人は要請するのです。
こういうわけで他者との交わりが平和であるためにお互いの自由の矯正が求められているのです。
わたしのささえるわたしのしもべ 、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。
わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義ををもたらす …
まことをもって公義ををもたらす神の方法は対話です。
顔と顔合せ主の霊を仰ぎ見る対話です。
十字架に公開された神のまことの霊を知ることから始まります。
<ひとりひとり対話することで公開のもとで新しい言葉・人格が創造される>
対話において忍耐が要請されます。
もの言えば唇寒し秋の風 ⇔ 他者に言葉が受け入れられない。
それで多くの人は次の対話を試みることになります。
一方的であれ発話者の言葉が他者に届くことを優先するのです。
しかしそれも私は失敗だと思っています。なぜなら、
旧約聖書の神の命令では他者が心から同意しないからです。
一方的であれ発話者の言葉が他者に届くことを優先するのです。
しかしそれも私は失敗だと思っています。なぜなら、
旧約聖書の神の命令では他者が心から同意しないからです。
わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
旧約聖書 イザヤ書55章9~11節
それに比べ次の方は言葉が命令服従関係ではなく受け入れられしかも受け入れたものとの交りがあります。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。ヨハネの黙示録3:20
聖書の中に著されている神様と人との対話からも一方的から双方向へ変化がみられる。
キーワードは双方向性です。
人と神との対話である聖書も契約という言葉で二つの契約があることは自由・人格の自由の成熟度<進化>を語っているのではないかと思えてくる。
人格の自由な交わりである対話は、わたしが他へ贈るもので他とともに喜び憩う(イエスの愛の御業)のようです。
面白いことに異なる人格をもつているゆえに対話は多様性を要請し
またお互い相違する人格ゆえに敵意を和解/歓待に変えてゆく
イエスの愛が養われる必要があるのです。
またお互い相違する人格ゆえに敵意を和解/歓待に変えてゆく
イエスの愛が養われる必要があるのです。
対話こそ他の人間に向けられた、愛だからです。
また異なる人格は対話に多様性な姿・真実を見つけることでしよう。
信仰と希望と愛の実現が他者との対話にあるからです。
母をみことばの約束からみつめれば主イエスと憩うために地上の命を終えることになります。