2013年6月9日日曜日

放蕩息子




神の偉大さは明白な事実です。人がどんなに頑張っても、月と星を配置し、季節を地に巡らせ、山の小鹿の出産に立ち合い、土深い虫たちの命を育むことはできないからです。






放蕩息子を赦す神の愛は人を愛するその愛の受容のおおきさを語っている。
牧師はそれゆえ恵み深い神の愛のみ前に罪を悔い改め、許されて神の御心にすべてをゆだねて生きようと薦めて説教が終わる。





それにもかかわらず、わたしが神と等しく、神に語ることが出るのは、なにゆえだろう。

牧師はそのことを見逃している。

放蕩息子の神の偉大さを語ることは、人が神の偉大さにあずかっていることを忘れている。 

人は、いつでも再起することの素晴らしさに、神の御心があることを牧師は見逃している。
死んでいたものが生き返ったのだから祝おうではないか。





イエスの十字架の贖いは、いかような罪人についても、罪を悔い改めて人生を始めることが出来る証しである。



神が崇められる栄光は同時に人が卑しめられてはならない。
人が神に開放される喜びと不可分である。

今日の説教は神の愛と人の愛と比べてなお神の愛は誰に対しても受容の大きさに圧倒されることを語り、だから、偉大な創造者(神)に愛されているのですから神のみ前に人が己の罪を悔い改め神の導きにゆだね神を崇めるようにで終わる。人のつぎが語られず終わる。

わたしは牧師に神の栄光は同時に人が卑しめられてはならないと、(人が神に開放される喜びと不可分であると)何遍も語っている。








イエスの十字架の痛みは神の痛みであり、その愛の偉大さゆえに、あなたはどんなところにおいても再びやり直すことが出来るという事とに結びつく。

人は神の愛の偉大さのゆえに再び再起できるのでなければ、神の死は人と何ら無関係なものになって死んだままになってしまう。




然しイエスは死者の中から復活するのです。







キリスト者はイエスの復活にも預かり生きているのです。

神の偉大さを賛美することは、人はいつでも始めることのできる新しい創造を神から与えられていることと一体表裏の関係なのです。




 

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