2012年11月8日木曜日

イエスは神の呪いを神の祝福へかえる救い主


(申命記 31章 16節 ~18節)


 主はモーセに言われた。「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入って行く土地で、その中の外国の神々を求めて姦淫を行い、わたしを捨てて、わたしが民と結んだ契約を破るであろう。その日、この民に対してわたしの怒りは燃え、わたしは彼らを捨て、わたしの顔を隠す。民は焼き尽くされることになり、多くの災いと苦難に襲われる。その日民は、『これらの災いに襲われるのは、わたしのうちに神がおられないからではないか』と言う。わたしはそれでも、その日、必ずわたしの顔を隠す。彼らが他の神々に向かうことにより行ったすべての悪のゆえである。



主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。




こうしてヨルダン川を渡るが、約束の地には主がモーセに語られた(約束)律法も一緒に携えて入ってゆく。




わたしは、ヨルダン川の東の荒野で洗礼者ヨハネが水のバプテスマをユダヤの人々に授けていたのがこの辺りであるのを知っていた。




マタイ3:11
 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらにちからのある方です。

    その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。




マルコ1章にも
バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。



 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた



イエスもヨハネからバプテスマを受けている。





洗礼者ヨハネはらくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。洗礼を受けるひとびとは彼をエリヤだと思っていた。



 当時のひとびとは終末にエリアが現れ、人々を神の怒りから救い出してくれると信じていた。そのために罪の悔い改めの洗礼を受けみ怒りに備えるためであった。



当時は身を清めるために教団で修行をしたのち自らの手で水で罪を何回も清める習わしであった、それに比べ他者から簡単に悔い改めのバプテスマを受けることができ、それも一回限りでいいとするヨハネのバプテスマは人気があっただろうということを聞いたことがある。


 ローマに征服されつつあることから当時終末思想がイスラエルに蔓延していた。エリヤがきて御国をたてなおしてくれるだろう、主に逆らうく者たちは火で焼きつくされる。私たちはモーセの律法がある神の民。神は憐れんでくださる。罪を悔い改め来たるべき日に備えるようとしてヨハネのバプテスマに臨んだのだろう。





ハプテスマの ヨハネはヨルダン川の東でバプテスマを施しているのは、民を導くのはヨルダン川まで、ヨルダン川を渡り約束の地に入るに、モーセがヨルダン川を渡って行けなかったように、ヨハネは御民イスラエルを罪の悔い改めまでは導いても神の御怒り(呪い)を除き祝福に与わるように御民を変える賜物は持ち合わせていなかった。
後に来る方メシアにそれを託したのだろう。



ある人はわたしに語ってくれた、終末は天変地異が現れ私たちはそう判断するのだと思っているだろうが、そうではない一人の人の現れることがそれなのだ。




終末は終わりの時、歴史そのものの目的で、既に始まっていて今も続行中である。


 
 
洗礼者ヨハネの後に来たイエスは神の呪いを取り除く子羊。
 
不完全な人を赦しなお互いに不十分な姿のままで愛し合うことを
御霊によって促がし、ご自身の聖い血で清めて祝福に与かるものとしてくださいました。
 
 
 
 
 
 

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