 
ナザレのイエスにある霊性は、
今を生きるわたしに息づいている。
安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。
  
  
わたしはこのイエスの言葉が好きだ。 
ただ好きだという気持ちでイエスと繋がつているのを感じる。 
  
霊性をこんなふうにして感じれられる。わたしの聖霊降臨認識術。 
  
  
  
わたしが京都へたずねて行った人も、「個人としての人間の人格的な自由」こそ、イエス様のみ霊の価値するものと、わたしと同じように感じているのが好きです。 
人格にある『自由』、が他者との交流に既に聖霊降臨を求ているのを実感した。
  
 
 
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