2011年11月1日火曜日

イエスとバプテスマのヨハネの相違について




バプテスマのヨハネの洗礼しか知らない、イエスの聖霊についてはそれは何という聖書箇所がある。
使徒19-2
「信じたとき、聖霊をうけましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。

日本の基督教会でも、貝塚聖書教会と同様バプテスマのヨハネしか知らない教会が多いのではないかと思ってしまう。


罪の悔い改めばかりを求めて、当人が今御国に招き入れられた存在であることを評価していないし、当人ですら御国に暮している喜び具体的な実感が乏しい。



まさに信じた時聖霊が受けている感覚がない教会ばかりである。


聖霊はその使徒の人格。
その人の自由性なのです。

バプテスマのヨハネは罪の悔い改めを迫り、神にへりくだる人を求めたが, ナザレのイエスは共に暮す人を求めた。

共に御国に暮すには、その人(ありのままなその人の聖霊=自由性=神と同じもの人格の自由性)を唯一必要なものとイエスがもとめていたと私には思えるのです。

はいといいえをはっきりさせること、ひとりひとりの恣意的な判断を希求しているのです。

あなたは今私とともにパラダイスにいます。
十字架の上でお互いのいのちのつきる間際にすら他者に言葉をかけていました。
あなたは今私とともにパラダイスにいます。

聖霊を受けるとは、私も主と同じに私の人格(自由性)に生きる人の生。

バブテスマのヨハネのようにあなたこそ来たるべき救い主ですかと尋ねる迷い人ではなく、他者と共に生きる、はいといいえをはっきりさせる同朋なのです。

挨拶のごとく、
サンキュー、ユーアーマイプレジャ、ユーアーウエルカム。
イエスが他者とともに日常にいる。

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