2010年7月18日日曜日

主日礼拝



今日の昼ごはんはお寿司とスパーリングワイン
夏はビールもいいがスパーリングワインを飲みだすとその味わいの良さに感服する。






LOUIS PICAMELOT






昨日の夕ご飯はカツオのたたきとスパーリングワイン




PROSECCO









貝塚聖書教会にゆきました。
この教会は牧師という説教者の言説に耳を傾けることが礼拝と思っている節がある。

わたしは言説は反駁の機会が与えられなくては罪のままだと思っている。


何故なら十字架のイエスは全ての人の罪を負って死に赴いたのであれば、
牧師を含め誰も正しい言説を述べることができないことを認めなければならない。

そのことを前提として考えるならば、
説教者の一方的な言説を礼拝とする刷り込み思い込みは、わたしにとって、欺瞞以外何物でもない。

神を崇めることと、人を愛することと同時不可分であり、人を愛することは、主を愛することと同時不可分である。

不完全な人の人生において、主と人を愛することの真理は、だれも正しい者のいない欠けだらけの中での人の真理への期待の解決への道である、とわたしは思っている。

復活した神を信じることは、矛盾や欠乏の解決を期待している人々の希望のことである。


神を崇める行為は、
だれも人は正しい言説を持ち合わせていないことへの認識である。



この自明のゆえに、今ある言説へのアンチテーデ、 言説への反駁は全ての言説は補われなければならない信仰に生きる人を、義人と呼ぶ意味なのです。



それはトンチンカンでも己の言説を発言できる根拠でありまたしなくては十字架の死に臨んだ男に申し訳がたたない負い目を負っているということでもある。






これが礼拝行為なのです。




礼拝とは他者に発話しそれが容赦なく恣意的に自由に批判されることを許し認め受け入れる関係性の全体構成なのです。


(彼は一人ひとりを救いに招いた)ということはこういう意味であり、このことは人は救われなければならないほどにトンチンカンな言説にこだわっているということであり、

このトンチンカンのこだわりからの解放、すなわち救われた言説に生きるには、

己のトンチンカンな言説を、(不完全な言説)を神の前に開示し他者から容赦のない反駁を受けなければならないということに他ならない。

神の国に来る新天新地は、新たにされて出現することがらは、多くの言説の反駁の後に形を新たにされた言説(神が選らばれた言葉の復活した姿)をわたしたちはイエスの復活のように神の力によって人々の現前に生き返るさまを見ることができるという、栄光です。



それは貝塚聖書教会に毎週日曜日に出かけてゆくわたしの信仰になっている。

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