日々是好日
2009年8月22日土曜日
オルホン河流域の遺跡
遊牧民
モンゴル
のオルホンOrkhon
河畔
で
発見
された
古代
トルコ語の
碑文
。732年と735年に
建立
した
墓碑
に
突厥
(とっけつ)
文字
と
漢字
で刻まれており、突厥文字
解読
のかぎとなった。現存する
最古
のトルコ語
資料
。オルコン碑文。
ウランバートルの東50キロのところにあるトニュクク遺跡。 遺跡といっても、 碑文、石人、バルバルという列石が残るだけである。
紀元600年頃の突厥疆域:
██
西突厥
: 明るい領域が直轄地。暗い領域は影響領域
██
東突厥
: 明るい領域が直轄地。暗い領域は影響領域
.
2009年8月16日日曜日
ハザール
写真はモンゴルウランバートル西30キロメートルの路上で出会った遊牧風景
ハザールの支配者は東洋系人種である。
ハザールの支配する領域
ハザール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ハザール(Khazar)は、
7世紀
から
10世紀
にかけて
カスピ海
の北から
コーカサス
、
黒海
沿いに栄えた
遊牧国家
。支配者層は
テュルク
系と推測されている。
交易活動を通じて繁栄した。
康国(
サマルカンド
周辺)に北隣する「突厥可薩部」がこの「ハザール」のことと考えられている。
9世紀までに、ハザルの支配者層は
ユダヤ教
を受容したが、住民はイスラム教徒が多かったと考えられている。
922年に
カリフ
・
ムクタディル
の使節に随伴した
イブン・ファドラーン
(
en:Ahmad ibn Fadlan
)による記録が『
ヴォルガ・ブルガール
紀行』として残されている。
後ウマイヤ朝のユダヤ教徒出身のワズィール、ハスダイ・イブン・シャプルト(
en:Hasdai ibn Shaprut
)とハザールのヨセフ・カガンとの間で交わされた往復書簡が残されている。
カイロ
の
シナゴーグ
のゲニーザー(文書秘蔵室)で発見された
10世紀
以降(
ファーティマ朝
時代)の文書(
カイロ・ゲニーザー
(
en:Cairo Geniza
))からも幾つかのハザール関連資料が発見された。
ハザールのユダヤ教化の経緯等が書かれた無名のハザール人のハスダイ宛書簡(シェフター文書)や
キエフ
の
テュルク
系ユダヤ教徒の紹介状かつ寄付の呼び掛け状(キエフ文書)など。
2009年8月15日土曜日
八月の日に
蝉のなく声が
窓から
夏の部屋に入ってくる。
アルメニア王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アルメニア王国(もしくは大アルメニアと呼ばれる)は
紀元前190年
から
紀元前66年
まで独立していた
王国
であり、
428年
まで
ローマ
と
ペルシア帝国
に従属していた
国家
だった。
紀元前1世紀
に
アルメニア高原
を中心に大
アルメニア王国
を築き繁栄した。
しかし
ローマ帝国
と
パルティア
、
サーサーン朝
ペルシア帝国
の間で翻弄され、
両国の緩衝地帯として時に属州となることもあった。
1世紀
頃には
キリスト教
の布教が進み、
紀元
301年
には世界で初めて
キリスト教
を
国教
とした。
10世紀
に多くの
アルメニア人
が故国を捨てる(
ディアスポラ
)ことになった。
正式名称はアルメニア語で、Հայաստանի Հանրապետություն(ラテン文字転写: Hayastani Hanrapetut'yun)。
Republic of Armenia。通称、Armenia。
2009年8月1日土曜日
窓から風が入ってくる
窓から涼しい風が通りぬけていくのを肌に受けて
夏の幸せをかんじています。
せみたちのいっせい叫びも
夏の贈りもの。
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