日々是好日
2011年5月31日火曜日
五月三十一日② Acre アッコ観光
アッコはエリシャのいたカルメル山から北に20㎞地中海岸にある。
エリシャも自分の信じることに対しては毅然としていたように、
どんなに凄惨な戦いの時代があったとしても、
人はそこに居ることの事実に、毅然としていることに 感動する。
12世紀の十字軍とイスラム勢力との激しい戦闘の場となる。
現在は、イスラエル占領後も、パレスチナ人が定住し、人口の三分の一を占めている。
アッコ旧市街は、世界遺産に登録されている。
わたしはドブロニックの居酒屋にいる感覚に陥った。
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五月三十一日 Haifaハィファ観光
Stella Maris Church
遠くに懐かしいコスタが見える。
地中海をクルーズしてハィファに停泊している。
カルメル山でエリシャの面影を見ようとやってきたが、カルメル山は今では美しい都市になつている。ユダヤ人地区とアラブ人地区とキリスト教地区があった。
カルメル山の麓にハィファの街がある。
豪華クルース船コスタが停泊していた。
紀元前14世紀の青銅器時代には小さな漁村の集落を形成していた。
この地の支配者はフェニキア人、ヘブル人、ペルシャ人、ギリシャ人、ローマ人、そしてアラブ人、十字軍、オットマン。エジプト人、イギリス人、及びイスラエル。
預言者エリシャと偶像の神バアルの預言者450人と真の神をめぐってハイファにあるカルメル山で戦った記録が旧約聖書に出ている。 列王記18
エリシャの時代も今も、多民族が交流する地中海に臨む美しい港であることに変わらない。
異質な言説が真理を求めてエリシャの戦いを(議論)続けている。
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五月三十日② ナザレ
326年、マリアの家の跡に、コンスタンチヌス帝が受胎告知教会を建立する。
ここにマリアが住んでいた。 ほんとうにマリアが暮らしていたところに来たのだ。
キリスト教会に交じってモスクの塔も見える。
イスラム教会も地域に密着している。
果物、ナッツ類など市場に豊富にある。
部屋の窓から見えるナザレの丘、イエスも見ていたに違いない。
2011年5月30日月曜日
五月三十日 ナザレへ
Notre Dame Hotelにチェックイン。部屋にWIFIがないため。ロビーで通信する。
六個のオレンジを使ってジュースを作る。値段は20シュケル、ナザレまでのバス代が19シュケル。タクシーだと180シュケル。
観光旅行者とイスラエル現地人の暮らしの相場の差が多いということは、御のぼりさんをカモにしている。
ティベリアのバスステーションでナザレ行のバスを待つ間に、銃を持った兵士二人を見る。イスラエルのどこに行っても若い男女の兵士がいた。ここは常に臨戦状態の中で暮している。
ナザレのバス停で、エルサレム行のバスの便を訪ねる。Afola行き823番に乗り、アフォラで乗り換える必要があるらしい。エルサレムは遠い。
2011年5月29日日曜日
五月二十九日② ティベリアの町
ガリラヤ湖に面したイスラエル北部のリゾート地。
古代ヘロデ大王の時代までは墓地であり不浄の地とされていたが、ヘロデ・アンティバス
により都市が再建されるとローマ皇帝ティベリウスに因んでティベリアと名づけられた。
街のいたるところに古い遺跡があるがすべて壊れている。
エルサレム神殿崩壊後ティベリアはヘンサドリンの拠点となりユダヤ文化の中心地となつた。
ティベリアの銀行でJCBカードを利用してATMで現金を引き出す。
明日ナザレに行くためにバスの時間を確認した。料金は30シケル程。
ここを曲がるとAVIV HOTELにつく。
五月二十九日 カペナウム、マグダラを訪ねる。
ガリラヤ湖はペテロ達が魚をとり、イエスはこの湖の上を歩いて渡った。
カペナウムはこのガリラヤ湖畔に面した美しい町、
旧訳聖書には登場しない。 新約聖書にのみあらわれる新興の町。
カペナウムはローマ兵の駐屯地として栄えた。日本では沖縄でアメリカ兵と暮らす人々といった塩梅になる。 収税所がありマタイもここカペナウムでイエスと出会っている。
この山はCapharnaumカペナウムからMigdalマグダラのマリアの住む町へ行く途中に見ることができる。
イエスもこの山をマグダラのマリアに出会うときに見ていたと思うと、当時のままの有様を垣間見る思いがする。
しかし現在は、
フェンスで囲まれたMigdalマグダラの遺跡。
マクダラのマリアは世界的に有名になったがこの町の現場はこの有様。
五月二十八日② 長い一日の終わりにティベリアに到着する。
JERASH ヨルダンにあるローマの遺跡に来ている。
エペソの遺跡にあった模様によく似た柱の装飾がある。
Ajlun Castle Site
Qusair Amra
Irbitから西へゆくとイスラエルとの国境がある。
ヨルダン渓谷のヨルダン側のイミグレーションを通過後、
バスに乗り換え、イスラエル側に入ってゆく。
イスラエルに入国したのはいいが、この辺りは泊まるところがない。
タクシーで近くの大きな町ティベリアに行き、
今宵の宿を得る。
2011年5月28日土曜日
五月二十八日 シリアへ向かってアンマンを旅立つ
シリアに行くはずが、イスラエルに行くことになる。
ヨルダンSAMIRAMISS HOTELのチェックアウト時、シリアとの国境が閉鎖されている
ことを知る。
永年の独裁政治を終わらすべく、シリアの政治闘争、所謂アラブの春が原因。
イスラルとの国境はShik Hussinがいまのところ開いている情報を得る。
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五月二十七日 モーゼの歩いた王道ロードをヨルダンヘ
アカバの町を出発する。行く手を遮るように岩山がそびえる。
岩山を前にして、モーゼ達も怯むことなく旅立つことを決意したに違いない。
しかしどこまで行っても、憩うところはない。乳と蜜のあふれる地はここにはない。
あるのは乾ききった砂と、黒ずんだ岩山だけだ。
時々、モーゼ達も、ベトウィンに出会ったかもしれない。
当然、平和な交流があり、情報の交換もあったに違いない。
彼はとうとう目的の地に行くことができなかった。ここネボ山(ビスガ)で
はるかに遠く見わたし乳と蜜のあふれる約束の地をその身に刻み込んだ。
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